戦に破れた百済の王子、吉備の国へ技術集団と来航。
ある時、朝鮮半島から吉備の国へ大きな船がやって来た。
船から身を乗り出して見下ろす男は、民衆にとってはとてつもなく大きく見えた。長旅で疲れていたせいか、髪や髭は伸び放題。頬は落ちくぼみ、目だけがギラギラ光っていた。男は自分のことを「百済(くだら)の王子」と名乗った。
古くから朝鮮半島と深い交流関係にあった吉備の国。話を聞けば戦に破れ、逃れてきたとのことで、王子をはじめ百済の技術集団らを快く受け入れた。
王子はその礼として、造船技術や製鉄技術など百済の優れた技術を伝授することを約束した。
まず最初に、本土防衛のための山城造りに取りかかった。というのも、百済と戦って勝利を収めた朝鮮半島の古代国家からの侵攻を配したからだ。
朝鮮式の古代山城にならって、標高400mの山頂に同じ様式の城を築き、周囲には城壁を巡らせ、そばの岩屋山には楯を構えた。
百済からの渡来人はこの城壁を「ウル」と呼んでいたことから、王子は温羅(うら)と呼ばれるようになった。
製塩・製鉄で吉備の国繁栄。温羅は吉備の冠者と呼び親しまれる。
このころ、吉備の中山は南山裾まで吉備穴海が入り込み、瀬戸内航路の中継地点として都へ上がる船が往来。
製塩技術に加え、温羅の渡来によってもたらされた製鉄技術により、吉備の国はますます繁栄した。
吉備高原や中国山地で採れた砂鉄は城の真下の谷間(干引かなくろ谷遺跡)まで運ばれ、精錬炉四基、炭釜三基を使ってさかんに製鉄が行われるようになった。
製鉄農具は吉備の沖積平野の開発を進め、製鉄農具は軍事力を増強。吉備の国の政治勢力はどんどん強まっていった。
勢力のほどは、全長350mもある造山古墳(岡山市高松町)や、全長270mの作山古墳(総社市三須)からうかがい知ることができる。
こうして城のふもとに広がる阿曽郷(あそのごう)は鋳物師(いもし)の地として知られるようになり、温羅は阿曽郷の神職の娘・阿曽媛(あそひめ)を妻にめとった。
吉備の国の首領となった温羅は、民衆から”吉備の冠者(かんじゃ)”と呼び親しまれるようになったのだが・・。
国内統一を図る大和朝廷の命により、吉備津彦命の攻撃に遭う。
吉備の国の繁栄は、全国統一をもくろむ大和朝廷にはおもしろくなかった。
そんな折も折、大和朝廷は勢力拡大のために北陸、東海、丹波、そして西道(山陽)の四ヵ所にそれぞれ将軍を派遣することにした。
西道の将軍に任命されたのが、吉備津彦命(きびつひこのみこと)である。
戦いの火ぶたは切って落とされた。
武勇に優れた命は次々と矢を射る。一方、腕力の強い温羅もこれに負けじと岩を投じる。矢と岩とは空中でぶつかり、海中に落ち、戦いは五分と五分。
あまりの強さに、命は温羅を変化自在な”鬼神”に例えた。
そんな時、命は一度に二本の矢を射ることを考えた。
一矢はこれまで通り空中で岩とぶつかり合ったが、もう一矢が温羅の左目に命中。
温羅の目からしたたり落ちる血潮は血吸川(ちすいがわ)を流れ、下流域の赤浜まで真っ赤に染めた。左目に傷を負った温羅は山中に隠れたが、命はなおも追って来る。血吸川に身を投じた温羅をも、執拗に追う命。ついに温羅は捕らわれの身となってしまった。
吉備の民衆を思い、死して後も世に吉凶を告げる。
吉備津彦命によって侵略された吉備の国。
命は見せしめとして温羅の首をはね、それをさらした。
民衆はこれを嘆き悲しんだ。温羅はそれに応えるかのようにうなり続けた。
驚異を感じた命は温羅の首を犬に食わせ、御釜殿のかまどの下に埋葬。
それでも十三年間、うなり続け、命を悩ませ続けた。
ある夜、温羅が命の夢枕に立って言うには
「わが妻・阿曽媛に命の釜殿の神饌(みひ)を炊がしめよ。もし世の中に事あればかまどの前に参りたまわば、幸ありたまわば、幸あらばゆたかに鳴り、わざわいあれば荒らかに鳴ろう。命は世を捨てて後は霊神と現れたまえ。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」と。
命がお告げ通りにしたところ、温羅のうなりは治まり、釜占いが始まった。
これが鳴釜神事(なるかましんじ)である。
その後、温羅は吉備津神社本殿の鬼門にある艮御崎宮に祀られた。
一方、温羅の亡き後、吉備の国を統治した吉備津彦命は、吉備の中山の御陵に葬られたのである。
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