第25回 平成19年12月22日 ゴスペル

今月始めに大阪案内所時代のOB会を開催しました。先輩二人が退職され第2の人生をスタートされたお祝い会でした。約25年振りに会う人達も多く、昔の写真を引き出してプロジェクターに映し出し、昔話に盛り上がった一夜でありました。

 その中でどうしても参加出来ない人がいました。大△典ちゃんです。彼女は昭和53年から2年間、私と一緒に仕事をしました。背はチッチャイのですがナイスバディーな女性でした。(25年前はネ)私の女房と同い年だったのでテニスをやったり、海水浴に伊勢方面へ出かけたのも良い思い出です。

 何故、出席出来なかったかと言いますと、彼女は趣味でゴスペルのグループに入っており、12月はクリスマスライブの練習の為に、どうしても抜けられないとの事。

「残念やなー」という事で諦めていたのですが、「22日がライブやから由美ちゃんと一緒に見に来てーなー」てな事になりまして、孫や娘、そして我々夫婦のいつものメンバーで大阪はアメリカ村にあるライブハウスに出かけました。受付を済ませ、地下に降りて行くと典ちゃんに会えた。ステージ衣装のドレスをまとい、それはそれはセクシーでござった。(25年前と同じでしたヨ)典ちゃんのお母さんも来られていて「なんか家族的雰囲気があるなー」 しばらくすると入場される人達のほとんどが小さい子供を連れた夫婦やら、メンバーの両親と親戚(?)友達(?)等など、昔から知っているような、そう、昔々村の公民館で隣のオッチャンが「国定忠治の芝居」に出るのでそれを見に行った、そんな気分になった。(オイオイ、ゴスペルと国定忠治を一緒にするなー!)でも、それ位庶民的でメンバーと観衆の壁が無いのです。

 さあ、始まりました。やっ!やるな!男性2人、女性6人「武六」がグループの名前です。典ちゃんは一番右側で歌っています。発音も良いし、声もよく伸びています。昔、「英語の勉強がしたい」とよく言っていた事を思い出した。毎週一回、案内所で英会話を習ったよな。所長や典ちゃん達は上達が早いのに、支店長と私の番になると、いつも会話がストップしたものでした。

2曲目の「Siyahamba」はとても乗りが良くて観衆と一体になって盛り上がったよ。

南アフリカの民謡なんだね。アフリカの風を感じました。(行った事は無いのだがー)

食事したり、飲んだり、クイズがあったりで家族一同、いやいや参加された全員が楽しみました。メンバーの皆さんも働きながらのライブ活動は大変だと思いますが、皆さんが楽しそうに歌っている姿をみて「俺も頑張ろう、私も頑張ろう」と参加した人達が元気を貰った事は事実です。これからも楽しみながら、人を楽しませてあげてね。

「働きながら、自分の趣味であそこまで楽しんでいる人は輝いている。」帰りの電車で女房どのがのたもうた。正に実感。

第24回 平成19年12月3日 南伊豆
 東京で会議があったので、一日公休を貰って熱海から南伊豆に向かった。
5年振りの伊豆急線は冷たい雨に煙り、残念ながら伊豆七島は見えなかった。熱川で大半の人が降りて、下田に着いた時は客車に2,3人。
伊豆観光が低迷していることを実感した。
確かに熱海からコトコト一時間半も乗れば遠いなあーと思ってしまう。
現代人の時間感覚では遠隔地として捉えられている。かと言って車で来ても高速道路が無く、時間が掛かる。
一日も早く縦貫道を通さねば、伊豆半島は死んでしまうぞー。


 南伊豆には休暇村があります。
現在はリニューアル中で本館、東館で営業。来年の夏休みから新装オープンとか。
露天風呂も出来る。松林越しに見る「弓ヶ浜」は想像するだけでリッチな気分にさせる。


 南伊豆の宝は「弓ヶ浜」です。
白砂青松とは正にこの景色です。
1200メートルも続き弧を描く様は「一幅の絵」であります。朝早く起きてパチリと撮りました。


 もう一つ、宝があります。
休暇村の玄関を出てすぐ前のサザエ店と喫茶店の小路を歩いて下さい。高野槙の垣根(防風林)が続く通りがあります。
毎年11月初旬に祭りがあり、それに合わせて一斉に刈り込み作業があります。家と家の境を刈り込む時も一定のルールが決められているとか聞きました。何百年と続いてきた文化遺産だと私は評価します。
何とか旨く売り出せないものか?
垣根越しの「甘夏みかん」なんて最高のカメラアングルだと思います。


 5年振りの南伊豆、往年の栄華復活を祈りつつ、伊豆急下田より「踊り子号」で東京に向かった。





第23回 平成19年11月23日 秋の収穫祭と感謝の日

秋晴れの中、サンロード吉備路の中庭で
「第4回 秋の収穫祭と感謝の日」と銘打って、朝市を運営している「サン直広場ええとこそうじゃ組合」主催により今年も盛大に開催された。

朝、9時より大勢のお客様が押し寄せ大賑わい。もちつき、おにぎり、イモ煮のサービスもあり、長蛇の列が続いた。

 姉妹都市の長野県茅野市から運び込まれた「りんご」は2時間で完売。総社は果物の産地で、桃や葡萄は多く生産しているが、さすが林檎は無いので人気が高いようだ。

わが宿舎の「吉備路温泉の源泉」を使った足湯コーナーも昨年より登場。ほかほか温まって、なかなか好評のようです。

私どもの「サンロード吉備路」も「特製うどん」を出店。塩○課長、カサ女史の奮闘で350食を完売。お疲れ様でした。

朝市は総社市内に5箇所程度あるが、この「サン直広場ええとこそうじゃ」が一番賑わっているようだ。組合員は200名を数え、農産品の販路拡張に貢献し、入会の希望者が後を絶たないとか。

農産品としてデパートに卸す特級品ではないが、お手ごろ価格で、特に夏季の桃、マスカット、ピオーネ等は「掘り出し物」が多く、贈答品としても十分通用します。

日常的に使う野菜類は100円から200円が主流で、近所のお母さんや飲食店の親父さんも見かけます。勿論、サンロードもお得意さんの一人で「地産地消」の一翼を担ってもらっています。宿泊されたお客様が袋一杯に買い込み、車のトランクに積み込まれる姿は、何とも我々にとって嬉しい光景です。

これからも良い農産品を出品して、お客様に喜ばれる「サン直広場」でありますように願っています。

第22回 平成19年10月30日 南こうせつ

コンサートバージョン第3弾「南こうせつ」です。

1030日18時入場、1830分開演。津市の文化会館中ホール。
女房殿が私の為にチケットを手に入れてくれた。(と云う事になっている)

私達の世代(団塊世代と云われているが、ひとまとめにされているようで当人達は適度に傷ついておりますよ、堺屋太一様)はビートルズ、ベンチャーズ、フォークソング、グループサウンズ、等など数多くのアーティストに囲まれて育ちました。
エレキギター(古い表現だね)がカッコ良くて、欲しくて欲しくてたまらないのだが貧乏故、兄貴のクラシックギターで「テヶテヶテヶー」と毎日触っていた事を思い出す。就職して最初の給料で買ったのが「ヤマハFG140」というフォークギターで14,000円也。嬉しかったなあー。

 さて、会場に入って席を確認。
前列より9
列目の真ん中。バッチリ見える。観客確認。オッチャン、オバチャンが9割強。勿論、私も女房もその中に入る。「やっぱり、団塊の世代じゃのー」と妙に納得してしまったのです。
「まあ、席から立ち上がって踊りゃーせんじゃろー」と一安心。

さあ、始まりです。手拍子よろしく「こうせつ君」登場。まんまる眼鏡にジーパンスタイル。舞台衣装に金が掛からないのがフォーク歌手の強みです。本当はヴィンテージ物のジーパンを履いているのかも?
懐かしい「かぐや姫」時代の曲、新曲も歌っていた。「うちのお父さん」では前列エリアのオバちゃんが盛り上がっていたなー。

 こうせつ君はトークも上手です。「フォーク歌手は見た目(容姿)ではありません。曲で勝負するのです。だからサダ君もテツヤも残っている」?
そして、教養があります。「駒止めて 袖打ち払う かげもなし 佐野の渡りの秋の夕暮れ 秋は切ないですねー」とのたもうた。

 チョと待って、こうせつ君。「秋の夕暮れ」ではなく「雪の夕暮れ」では?

実はこの歌、和歌山県の新宮市から那智勝浦町に向かう途中に佐野という地名があり歌碑が残っています。私が休暇村南紀勝浦にいたのでこの歌を覚えていたのです。今度、南紀方面に行かれたら、こうせつ君に是非寄って貰いたいなあー。

バックバンドの面々が又いいのです。キーボードの若い女性以外は、品の良い白髪のバイオリニストを始めとして、ぷっくり体型のギタリスト、渋いベースマン、ハンチングを被ったドラマーと我々と同世代の仲間だった。
時間が経つと共に、何と云うか「連帯感・一体感」のようなものが、演奏者と聴衆の間に生れてくる。
「こうせつ君も頑張っとるけー、わしも頑張るでー」勇気が湧いてきた。

アンコール最後の曲は「おもかげ色の空」

♪ 別れたとき おもかげ色の 空を忘れました・・・♪

とうとう総立ち!思い切り大きな声で歌う自分がいた。

第21回 平成19年10月21日 倉敷と大原孫三郎
倉敷はメジャーな観光地で、旅好きな方なら一度は行った経験があると思います。

今更、ブログに取り上げる事は無かろうと思いつつ「屏風祭り」の名前に惹かれ伯備線に乗って倉敷へ。

 いつもなら駅前大通りを歩き美観地区に向かうのだが、今日はえびす通り商店街を抜け本町、東町へ向かった。本通り商店街に差しかかると蔵作りの商店が約1キロメートル近く、東町まで続いている。「オーこりゃー立派な通りじゃのー」とビックリ。いつもは大原美術館から堀川沿いにアイビースクエアーまで歩いて、倉敷を知っているふりをしていた自分を恥じた。この通りでは商家毎に玄関や土間に自慢の屏風と生け花を飾り、道行く人に自由におひろめしている。「なんでも鑑定団」の先生のように物の価値が解れば何倍も興味が増すのですが凡人故、字が読めん絵が解らんでは悲しい、くやしい思いをしました。
 しかし、住居を開放して観光客に公開する地元の方々の熱意と協力振りに「観光倉敷」の底力を見たようで脱帽です。

 今日は阿智神社のお祭りです。ジジ、ババの面をかぶった「素隠居」という、おどけ者がシブ団扇で見学者の頭をポンポンと叩いている。福が来るのかなー?   
 怖い鬼も歩いていて小さな子供が、おお泣きしていた。小春日和の風と共に遠い昔を呼び起こす風景だった。

 さて、大原孫三郎がクラボウの経営者であった事や大原美術館を創立し児島虎次郎に絵画の収集を任せた事は有名ですが、彼の社会貢献には企業人として特筆すべきものが数多くあります。
日本で最初の孤児院(石井十次設立)への資金援助、大阪愛染橋保育所設立(現愛染橋病院)、大原農業研究所設立(現岡山大学資源生物化学研究所)、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、倉敷中央病院設立等など、このページに書ききれぬ功績を残しました。

 隠れ話ですが、倉敷は第二次世界大戦時に空襲は受けませんでした。それは「柳条湖事件」を調査した国際連盟「リットン調査団」が日本に来た時、倉敷に立ち寄り「大原美術館」を見学し「この様な地方都市に世界の宝がある」ことに驚き、アメリカ政府に対し「倉敷は空襲せぬよう」進言したそうです。

 今回も「チョイ寄り」ならぬ「チョイかじり」の知識で書きましたが、新潮社「わしの眼は十年先が見える」城山三郎著が参考文献です。

詳細はその中にあり。孫さんも若い頃は相当な「放蕩息子」であったようです。

第20回 平成19年9月17日 USJ
番外編です。
妻、娘、孫と私の4人で大阪のユニバーサルスタジオジャパンに出掛けた。
朝早く出発して開門と同時に入場予定であったが、
930分到着。夕方の17時頃までフルタイムで遊ぶ予定。

私は年甲斐もなく遊園地好きかも?東京ディズニーランドも子供の成長と共に
78回は行った記憶がある。
一昨年の
2月には家族総出の5人で一泊二日のディズニーランドとディズニーシーの2デイコースを楽しんだ。
同僚に話すと「ええ歳こいて、何が面白いんかのー」と、あきれた顔をされる。これが、歳を重ねる毎に面白くなるのが不思議。

USJも開園以来4回目だと思う。正直、ディズニーのキャラクターの数には負けるし、少々分が悪いかなと思うのですが、開園以来アトラクションも増えて、年々面白くなっている。チケット売り場で女房殿が「私と真理ちゃんは年間パスポートを持っているので、入場券はお父さんのだけでいいよ。」「そんなの持っとるん?」単身赴任が永いと自分だけ取り残されたようで落ち込むなあ・・・。「エキスプレスパス、買おう。これやと並ばんでも早よう見れるさかい。」「何じゃー、そのエキスプレス何ちゃらはー?」7枚綴りで4,500円也。3冊購入。

まずは孫も乗れる「
ET、」へ。エキスプレスパスを提示すると別の入り口から入る。たくさん並んでいる人達の横をスイスイ歩き、すぐに乗車出来た。「こりゃーすごい、順番を金で買うシステム」だと解った。前回の時は「ファーストパス」で早めに行って、時間帯予約をするシステムだったと記憶しているのだが、大阪人は商売人さかい、銭になるシステムを開発したんや、と納得した。しかし、順番を銭で買うとは「浪花屋、お主も悪じゃのー」でも、このパスのお陰で7つも乗れたのは価値がありました。入場券と合わせれば9,900円となりチョット高いのですが、混んでいる休日などには、価値があるのではと考えます。私のお気に入りは「スパイダーマン」。3D画面を通じての迫力は満点です。
今まで見てきた中では最高の出来だと思う。

そして、今回のお目当ては「ハリウッド・ドリーム・ザ・ライト」のジェトコースター。女房も乗る気満々。ジェトコースターは一人で乗ったのでは面白さ半減。スリルを共感出来てこそ楽しいのです。しかし、
58歳と51歳の爺婆(ジジババ)を乗せてくれるかと一抹の不安。富士急ハイランドの「FUJIYAMA」では56歳以上は乗車拒否だったから・・・。係員の制止もなくエキスプレス入り口よりゲートイン。T字型の安全バーを手前に引き「ドリカム」の曲に乗せてスタート、アンド、ゴー。この浮遊感は中々イイゾー、尻と座席との空間がスリルを呼び込むのです。「イケーーーぇ」安全バーが肩からホールドするタイプでは無く、T字型バーの不安定さがスリルを倍加するのではないでしょうか?3分間の空中浮遊を満喫すると共に、「まだまだ、俺はイケテルかも?」と妙な自信を持ってしまいました。最後の笑い話。孫は3歳で身長が1メートルに少し足りません。

ET」は乗車OKなのですが、「スパイダーマン」と「バック・トウ・ザ・ヒューチャ−」は102センチ必要なのです。女房と娘が孫を連れてトイレに入ったが中々出てこない。待つ事、しばし。孫が「しーっ、しーっ」と言いながら女房に抱かれて出てきた。ベビーカーに乗せて、スパイダーマンの入り口に着いた。
身長チェック板に孫を立たせ計測したスタッフが「
OKです」と言って孫の手の甲にスタンプを押した。
入り口を過ぎて、女房と娘が「やった、やったー。マーちゃん偉い」と大喜び。孫が私に「じいじ、痛い、痛い」
なんと孫の靴底のかかと部分にはティシュが約2,3センチの厚みで敷いてあった。正に孫にとっては「ハイヒール状態」であったのだ。「家族みんなで乗らんと楽しくないやん」二人の共謀でありました。因みに女房は大阪出身のおばちゃんです。USJのスタッフの方々、ごめんなさい。次回行く時は正味、102センチ以上に育てて入園します。

第19回 平成19年9月4日 備中松山城

 暑い8月が終わり9月となったが、相も変わらず岡山は「晴れの国」です。

月に一回は更新せねばページを取り上げられる強迫観念にさいなまれ、第一回で取り上げた「頼久寺」のある高梁市へ向かった。

 「備中松山城」は標高430メートルの高台にあり、天守の現存する山城では、国内随一を誇ります。

平日は「ふいご峠」の駐車場まで車で行けるので少しは楽ですが、週末、日祭日は麓の城見橋公園駐車場からシャトルバスとなりますので御注意ください。
 
 「ふいご峠」から700メートルの急坂を、夏を惜しむかのような蝉時雨の中、汗を拭き拭き登城した。100メートル毎に天守までの距離が標示してあり、心なしか安心感がある。

しかし「昔は、こんぎゃーな坂道を登ったんかのー?」とブツブツ一人ごちながら、何んとも体力の無さを実感する。半分程、登った所で高梁市街を見渡せる場所に着き、一枚パチリ。

 そこで一服の後、「後半分だ。」と言い聞かせ大手門跡に到着。右手に崩れ落ちそうな巨岩の上に塀が乗っ掛かっている。「すげーなあー」と思わず声が出てしまった。

野面積みの城壁を右手に見ながら天守に到着。復元された南御門、五の平櫓を従えて小さいながらも凛々しき天守の姿。これは絵になります。
 このお城は戦国時代、毛利氏の東方進出の拠点として、織田方との戦さの接点であり、天正二年(1574年)の「備中兵乱」が歴史上に残っています。

その時の城主、三村氏が滅んだ後、天野・桂氏、小堀遠州の父子(代官)、池田氏、水谷(みずのや)氏とか城主は頻繁に変わっています。

現存する天守は水谷勝宗が天和3年(1683年)に修築されたと伝わる。

幕末の頃は板倉氏であり、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜と共に江戸に同行した老中、板倉勝静(かつきよ)が城主であった為、留守を守る城代家老の山田方谷(備中松山藩の財政改革者)が近隣の岡山藩(新政府側)などからの攻撃に対し領民を救う為、新政府方に松山城を明け渡す事件も起きている。

 さて、最後にあんな高い所にある城に毎日登城したか?という疑問は解けました。麓に「御根小屋」という城主の日常の居館として、また領内を治める政庁としての立派な御屋敷がありました。

現在は県立高梁高等学校が建っており、石垣に当時を偲ぶことが出来ます。近くには武家屋敷の通りもあり、城下町の風情を色濃く残す高梁の街でした。












国民宿舎サンロード吉備路TOPページ
吉備路観光物語ページ